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2017年2月19日(日)14:00~16:00 @国際交流センター2ABC
元在タンザニア日本大使館広報文化担当 木村映子さんから、『私が歩んで来た道~東アフリカ タンザニアとの出会い~』を開催しました。30名の参加がありました。
木村さんは開口一番「30年お世話になったタンザニア、お礼を込めてタンザニアのことをお話します」と真摯にお話されました。
東アフリカに位置するタンザニアの面積は日本の2.5倍、人口は5,200万人、国土の1/4を動物公園が占めていて、家の中にライオンが入ってくることもあるそうです。同じ東アフリカのケニアは資本主義、タンザニアは社会主義のため、ケニアに比べて国の発展が出遅れたそうです。身に巻く色鮮やかな腰布「カンガ」を何十枚も見せていただきました。カンガには「ことわざ」が書かれていて、例えば世界遺産のキリマンジャロのふもとにもう一つ小さな山がある柄は、山と山は出会えないが、足がある人と人は会うことができるなど、一つ一つ解説していただきました。
タンザニアの言語はスワヒリ語で、1億2,000万人ほどの人が使っている。mtoto=子ども、polepole=ゆっくり、maii=水、moto=火、tingatinga=絵など、心地よい発音にほっこり。文法も紹介いただきました。
タンザニアは、30年前から現在も、海や大きな湖があるにもかかわらず水が手に入りにくく、苦労している。道路が通らないため隣村にも行けないという過酷な事情が横たわっているが、タンザニアは人類発祥の地であり、有名な壁画も数多く残されているそうです。
首都はドドマで、商業の中心都市はインド洋に面したダルエスサラーム。明治維新の頃に津田梅子達エリート層の女性はアメリカ西海岸のサンフランシスコを目指して留学したが、九州天草の貧しい女性たちは東のタンザニアの港町にたどり着いてカラユキさんになったという現実。明治中ごろニチメン創設者の広岡信五郎氏はタンザニアとの交流を盛んにした。商船三井の船が月に1度港に立ち寄るので、現地の日本人は仕送りを船員に託したそうです。木村先生も2メートル四方の板のティンガティンガ(絵)を20枚日本に運んでもらったとのこと。
先生は母一人子一人という環境に育ち、日本にいるお母様が病気で倒れたとき、遠く離れたアフリカで暮らしている自分はこのまま働いていていいのだろうかと悩まれました。そんな時にアフリカの友人が「映子が一生懸命働いて得た収入が二人を助けてくれている。収入をお父さんだと思って、タンザニアの仕事を頑張りなさい」と言ってくれたそうです。そこで月に1度日本に帰国しながら仕事を続けられ、6年前に定年退職されました。
タンザニア人の思いは「世界は人だ」で、人付き合いが上手で洗練されていて、温かみがあり、いじめなんて考えられないとのこと。特に子どもにはスキンシップを大切にして、愛情いっぱいで育てるそうです。日本がなくしたものがタンザニアにはあるような気がします。最後に民族学博物館名誉教授の和田先生から、「1964年からのアフリカ探検の仕事もスワヒリ語の達人である木村さんのサポートのおかげでスムーズに進められました」との感謝のお言葉がありました。遠い地アフリカで勇敢に仕事に取り組んでこられた木村先生のお話を聞き、アフリカが身近に感じられ、大好きになりました。
木村先生から「スワヒリ語を一緒に勉強して、アフリカにご一緒しましょう」とメッセージをいただきました。ご興味のある方はぜひご一報ください。