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「ウクライナ情勢をヨーロッパ史からみる~ウクライナの人たちが守ろうとしているものは何か~」
2022年7月18日(月・祝) 豊中市立生活情報センター「くらしかん」にて
講師:大津留厚さん (神戸大学名誉教授)
ロシアのウクライナ侵攻開始から5ヶ月。国際社会の非難にもかかわらず攻撃は止まず、長期戦の様相を呈してきましたが、その背景が語られることはあまりありません。そこで今回は、ハプスブルク近代史の専門家である大津留先生から、歴史的視点から見たウクライナについてお話し頂きました。
新型コロナウイルス感染の再拡大中でしたが、38名の参加者があり、関心の高さがうかがえました。
先生のお話は、今回のロシア侵攻で話題となった西ウクライナの都市リヴィウが州都だった1907年の東ガリツィア総選挙に焦点を当てたものでした。
ヨーロッパの国境は島国の日本と違って流動的で、当時のガリツィアは、ポーランド系、ユダヤ系、ルーシ(ウクライナ)系が暮らす多民族国家でした。そして基本法第19条「民族の平等」を掲げるオーストリア=ハンガリーのアウスグライヒ体制のもと、それぞれの民族が民族性(Nationalität)と言語を守り育てる全面的な権利、各州で使われている言語(landesüblich)の教育・行政・公共の場における対等の権利が保障されていたそうです。
選挙法においても、19世紀末から普通平等選挙を求める運動を経て、1906年の改正によって男性のみではありながら普通平等選挙制が導入され、基本法第19条の延長線上に民族的比例代表制=小選挙区制で、民族的境界に可能な限り沿う形で選挙区を設定し、その数がほぼ民族別の人口比に見合う形になりました。
ただ東ガリツィアは例外的に一定の人数のポーランド系が存在する場合には二人区を設けてポーランド系の当選が可能にしたためのルーシ系の反発や、州都レンベルク=ルヴフ=リヴィウ大学学生のハンガーストライキなどもあり、激しい選挙戦が繰り広げられた末、民族別比例代表の「民族」に含まれていなかったユダヤ系(シオニスト)が当選し、ポーランド系は3議席分、ウクライナ系は1議席分予定より少ない結果に終わりました。
まとめとして、この1907年の選挙でルーシ系(ウクライナ系)が主張したことは、ポーランド系への対抗⇒ユダヤ人政党との共闘と、ハプスブルク帝国内での民族的利益の増進で、社会民主党は民族を超えた連帯を主張したことが挙げられました。
欲を言えば現在のウクライナの状況とのつながりなどもお聞きしたかったのですが、ある意味理想上のフィクションともいえるアウスグライヒ体制について知ることで、参加者は、現在の西ウクライナが100年以上前にこのような多様性を尊重する国家をめざしていた場所であったことに感嘆するとともに、力でそれを踏みにじるような行為を認めることはできないと、改めて思ったのではないでしょうか。西ウクライナに影響を与えたハプスブルク史に焦点をあてたお話から、歴史の見方などを学び、それぞれ考えを深める時間となりました。